もう少しでシネフィル

Un peu plus en cinéphilie

MENU

塩田明彦『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』を読んで

f:id:takaya_0822:20160328225948j:plain

 

この著書は、2012年の春から秋にかけて、映画美学校アクターズ・コース在学生のために行われた連続講座の実録となっています。

 

著書自体は2014年1月16日に出版されたものなのですが、もの凄く分かりやすいこともあって何度も読んています。今回は著書の言葉を章ごとに掻い摘みながら、映画の演出について紹介していきます。

 

 
 

 

第1回 動線

 

”動線”という単語を聞いて何を思い浮かべるでしょうか?正直、この著書を読むまでは映画を観るうえであまり意識したことのないものでした。

 

ですがこの著書を読んでからというもの、同じ作品を観たときでも今まで私が観ていたのはなんだったのか?という感覚すら覚えました。著書の中のでは以下のように説明しています。

 

世の中には「越えてはいけない一線」というものがある……。この作品は、小説でなく映画なので、「越えてはいけない一線」を視覚的に実現させなきゃいけない。そしてそれを本当に超えさせなきゃいけない。越えた瞬間、ハッと驚くような事件にしなくてはいけない――演出の要はすべてそこにあるんです。 10ページ10行目より

 

ここでの「この作品」とは成瀬巳喜男『乱れる』を例に出して説明しています。小説でなく映画なのだから、視覚的に実現させなきゃいけない。というこの言葉が素晴らしいですよね。これが全てと言っても良いかもしれません。

 

私が映画を観ているなかでこの境界線を感じたことは何度もありますが、例えばジョン・フォード『静かなる男』の境界線も素晴らしいです。冒頭の駅のホームにて塀の向こう側から見ている村人とジョン・ウェインから始まり、家の前の塀から引越してきたジョン・ウェインを覗くモーリン・オハラなど、ここでは塀によって生きる世界の違いを説明しています。

 

その後ふたりが出会ってからは、家の中と外で”天国”と”地獄”を表現しているようにも思えるのが素晴らしい。喧嘩して家の外へ追い出されるジョン・ウェインは、まるで自分が作った天国から招いた天使に追い出されるようではありませんか?

 

話は移っていきまして、この章では役者による「演技」についても触れています。特に次のように説明している部分がとても興味深かったです。

 

演技経験のある方、ちょっとでもかじったことのある方はご存知のように、何もしない状態で、ふっと台詞を言って、そしてまた相手の芝居を受ける、というのは極めて難しい演技なんです。そうではなく、何か別のことをやっていると演技は格段に楽になります。二つのことを同時にやっていると芝居は基本的に成立する。 21ページ16行目より

 

もちろん私は演技経験がありませんから、こんなこと考えたことがありません。いわゆる自然な演技というものをするのにはこういう工夫を演出することによって行われているということです。

 

特に映画として生活の一部を切り取るのであれば、まさに生活の中で行われていることをさせるだけでそれが”演技”として活きてくる。まるでそのキャラクターとして生きているようにも見えてくるわけですね。

 
 

第2回 顔

 

ここで言う”顔”とは「この映画の顔だ」の顔ではなく、まさに顔のことです。化粧ばえする顔という単語を聞いたことがあるとは思いますが、どちらかと言うと映画ばえする顔というのに近いでしょうか。

 

著書ではアルフレッド・ヒッチコック『サイコ』とガズ・ヴァン・サント『サイコ』を例に出して、以下のように説明しています。

 

ヒッチコックという監督は、誰よりも俳優を「見ている」ってことです。俳優を素材としてもの扱いするんだけども、誰よりもその人を見ているから、その俳優にしかできないことをやっている。明らかにあの演出はアンソニー・パーキンスの顔でなくては成立しないんですね。 46ページ4行目より

 

「この役はこの人に向いている」という考え方を越えた、何か。映画を観ていて、もの凄く似合う役を演じることは多々ありますが、この人の顔ではなければならないとまで思うことはなかなかありません。

 

ふと頭によぎったのはコーエン兄弟ノーカントリー』のハビエル・バルデムです。『サイコ』のアンソニー・パーキンスと比べるのは可哀想ですが、アントン・シガーの顔はまさに『ノーカントリー』という作品に必要な素材でした。

 

映画を観ていて恐ろしいと感じるのは、人間であって人間でないような。大きくずれているわけではないが、私たちと似ているのに、どこか確実に違う何かがある。そう感じされるキーがこの”顔”にはあります。

 

生命なきものに生命を与え、生命あるものには物として見つめる――まさに「これが映画だ」という感覚があります。つまりヒッチコックは、人間からその人間性を剥奪するような見つめ方をするけど、まったくその逆の視点も持っているというのが重要なんですね。 53ページ3行目より

 

ホラー映画などでよくある古典的な演出で、誰もいないのにブランコが揺れているなどはこれにあたります。物を生きているもののように撮ることで確認に良くない何かが起こるという感覚。

 

いつもなんとなく観ていたシーンが映画の演出として、重要な装置としてはたらいていることが分かるかと思います。ヒッチコックで言えば、別の著書で読んだ『サイコ』評では「車のワイパーの動きが、ナイフで斬りつけられることを暗示している」というのも読んだことがあります。

 
 

第3回 視線と表情

 

”視線”といえば成瀬巳喜男という意見をよく目にするような気がしますが、私も数少ない監督の作品の中で『山の音』を観た際には、誰とも視線の交わることのない原節子、それでも歩む先を見つめる視線の演出の素晴らしさに驚いた記憶があります。

 

著書の中では”視線と表情”ということで、小津安二郎秋刀魚の味』を例に出して以下のように説明しています。

 

小津安二郎という人が、なぜ俳優を無表情にするのか、なぜ俳優の内面を露出するような芝居を禁止するのか、俳優に対して「機械的に動け、無表情になれ」と要求するのかと言うと――皆さんも小津の映画を観ると不思議に思いますよね?――表情を消すことによって「場」が立ち上がるからなんです。 87ページ9行目より

 

いつものメンバーで飲みながら話をしているときにも、小津安二郎の感情を演技させないことについて話題になることがあります。それだけ重要で、面白いことなんです。

 

ここで言っているのは俳優が感情を演じてしまったら、その感情だけで全てが終わってしまう。観ている側が想像しうる幾つもの可能性をそこで奪うことになってしまうということなんですね。

 

先ほど私が例に出した成瀬巳喜男『山の音』も視線で感情を表現し、原節子の表情としてはいつもどっちつかずの顔をしています。遠くから帰ってくる上原謙を見つめ、山村聡と共に遠くを見つめ、悲しくも明日を見つめています。

 
 

第4回 動き

 

『第1回 動線』で「小説でなく映画なので 」という言葉が登場しましたが、動いているからこその映画。映画は動く物語ではなければならない。ここでは映画の始まりまで遡り、リュミエール兄弟を例に出して以下のように説明しています。

 

僕が思うに、映画が生まれ落ちた瞬間から映画だった最大の理由は、上映尺が1分だったからです。どういうことか?つまり、世界を1分以内で捉えなければならなかった、ということです。 116ページ15行目より

 

ただ単に映像として全てを捉えるのではなく、誰かの人生のひとときを切り取る行為。この切り取った全ての要素が”動き ”として現れてそれが映画になるということを言っています。

 

そして更に、「ショット」について以下のように説明しています。

 

どの被写体のいかなる「動き」を選択するか。それをどう組み合わせるか――時間と空間のフレームのなかで「動き」を設計していくこと、そういう世界の見つめ方が、リュミエールの映画と共に生まれてきました。
1分であることによって、始まりがあって終りがある。どこで始めて、どこで終わるのかを決める。こうして産み落とされた映像を、ここでは「ショット」と名付けようと思います。 120ページ12行目より

 

この後、著書では「動き」の設計についてになっていくわけですが、一番最初の例になっているのが私の大好きな作品であるジョニー・トー『ザ・ミッション 非情の掟』というのがまた素晴らしい。

 

しかも一度観たら忘れられない、ジャスコでの銃撃戦について解説しています。全員が別の方向に視線をやり、お互いに背中を預ける。よだれが出るほどかっこいいシーンです。

 

2015年といえば、ジョージ・ミラー『マッドマックス 怒りのデス・ロード』と言っても過言ではないこの作品も同じように動きだけで今まで生きてきた世界が見える。そして、動きだけで信頼関係が見える。だからこそ、あれだけ台詞の少なくとも成立してしまうんです。

 
 

第5回 古典ハリウッド映画

 

ツイッターでもたまに説明過多な演出について論争のようになることがあります。主に「最近の邦画は台詞で何でも説明してしまう」というものです。それにもつながってくることですが、この回では古典ハリウッド映画について説明しています。

 

もしかしたら私が映画について考え、学んでいきたいと考えている部分はここに集約されているかもしれません。古典ハリウッド映画にはあって、今の映画には無くなってきているものを以下のように説明しています。

 

「何が描かれているのか」と同時に、「何が描かれなかったのか」という省略の凄さであるために、こうした作劇に慣れ親しんでいない僕たちにはそのすごさがうまく見えてこない、ということがあるように思うんです。 152ページ9行目より

 

本来あるはずべきものがない。それがないと映画の中でなにが起こっているのか分からない人がいるから、映画は次第に説明が増えていき、上映時間が長くなってしまう。負のスパイラルと言えます。

 

私もできているとは言えませんが、「物語」を追うのではなく「画面」を追う行為がとても重要になります。『第4回 動き』で説明がありましたが、映画は世界を切り取る行為によって生まれるものです。

 

省略することで、より映画になっていく。より想像をかき立てられることとなる。そして、古典ハリウッド映画の素晴らしさの一つの答えとして以下のように説明しています。

 

その作劇と演出と演技が映画史上、もっとも単純かつ強力なかたちで結びつき合っていたのが、ハリウッドの古典的な話法というもので、そうした協力関係のなかには、たとえ俳優の演技がシンプルで外面的でも、映画はものすごく多くのことを観客に伝えることができたんです。 159ページ6行目より

 

演者が余計な演技をしなくとも、省略された部分を想像することでより強いイメージを抱くことができることを説明しています。画面から行間を読むとも言えるかもしれません。それがエモーショナルが強くなる要因になるとも言っています。

 
 

第6回 音楽

 

この回では「声」について触れています。ツイッターでたまに見る「映画は字幕で観るべきか?吹き替えで観るべきか?」という部分についてはここで解決できるのではないかと思います。

 

私はいつからかなんとなく字幕で映画を観るのが当たり前になっていましたが、それはその「声」が俳優の発する本当の声だからというのが理由です。と言っても、ジャッキー・チェンエディ・マーフィは吹き替えでしか観ませんが。

 

映画における声の重要性については、加藤泰『緋牡丹博徒 花札勝負』を例にあげながら以下のように説明しています。

 

声をめぐる緊張関係のなかから、彼らの「歌」が立ち上がってくるんです。ひとつの声をどう響かせるかで世界が決定されていく、映画のエモーションが決定されていく――その感じが「音楽」なんです。
これは理屈じゃないんです。体感なんです。 190ページ14行目より

 

要するに重要な演出の一つとして、声を使っている映画が当然のように存在する。もちろんそうでない映画を吹き替えで観ることには、全くと言っていいほど問題はありません。ただ、「声」の重要性についても分かっていただけるのではないでしょうか。

 

話は「歌」の方へ移っていきますが、ここから著書では森崎東男はつらいよ フーテンの寅』を例にあげながら「喜劇役者」について、以下のように言っています。

 

今でも、かつて喜劇役者が演じていたような役割を演じている俳優の方々はいらっしゃるけども――僕が言うといろいろ差し障りがあるから言いたくないんですけども――今ひとつピンとこないのは、たぶん、その人たちが「おかしい」ことをやろうとしているからなんですね。 200ページ5行目より

 

私は川島雄三幕末太陽傳』が大好きなんですが、喜劇役者といえばフランキー堺と言いたい。著書では寅さんですが、フランキー堺も同じように本気なんだけど、どこか本気でないような歌うようなしゃべり方。そしてあの身のこなしです。

 

どちらも「おかしい」ことをしているわけではありません。ただみんなと「ずれている」ということ。これが喜劇役者を演じ、生きることだと説明しています。また、常に他の人とは違うエモーションで生きているとも言っています。

 
 

第7回 ジョン・カサヴェテス神代辰巳

 

ここでは「ジョン・カサヴェテス神代辰巳、どっちが偉いんだ?」と言う始め方をしています。比べる対象が実に面白いです。私はどちらも好きな監督です。

 

まずはジョン・カサヴェテスについて以下のように説明しています。

 

ジョン・カサヴェテスは感情を主役にしているから、ひとつの結論が出たあと、そこから5分続けていたら、これいったいどうなるの?ってことをやるわけです。「あんたなんか嫌いだ」と言った5分後には「帰らないで」と言っているのが人間なんだ。なのにそこからまたさらに5分描くと、「やっぱりもう二度とあんたに会いたくない」と言ってるかもしれない。 229ページ8行目より

 

ジョン・カサヴェテスについて話をするときに私がよく言うのは、「人」ではなく「会話」を撮っている監督ということ。言葉を発する人ではなく、会話をキャッチボールするまさにボールを撮っているように思えてならないわけです。

 

「感情を主役にしている」と全く同じとは言えませんが、かなり近い感覚と言えると思います。俳優を近くで撮っている、もちろん物理的な距離のことではありませんが、そう言ってもいいかもしれません。

 

続いては神代辰巳について以下のように説明しています。

 

「感情」があって「動き」が生まれるのか?それとも「動き」があって「感情」が生まれるのか?――鶏が先か卵が先かわからない。ある「感情」が、ある「音の連なり」を生む、あるいは、ある「音の連なり」が、ある「感情」を生む。 244ページ10行目より

 

難しいようで簡単なような、簡単なようで難しいことを言っています。要するに、「こういう感情になるならこう動くはずだ」ではなく、神代辰巳なら「こう動きの演出をすればこういう感情になるはずだ」をやってのけているということなんですね。

 

私も神代辰巳の作品をまだ多くは観ていませんが、楽しいこと馬鹿なことをやっているにも関わらず、危なっかしさやどうしようもないほどの虚しさを感じるのです。これが著書で語られる神代辰巳のエモーショナルな動きなのです。

 

この回を読み始めたときはどうなることかと思いましたが、「感情」を撮るジョン・カサヴェテスと「動き」を撮る神代辰巳を比べたわけです。素晴らしい比較になっていると思います。

 
 

あとがき


この著書を読んだのは今回2回目だったのですが、自分の覚えにもなるような書き方をしていたら結構なボリュームになってしまいました。私の書く文が一番説明過多ですね。

 

映画の演出について、私はこの著書がとても勉強になりました。以前から考えていたこともありますが、それが綺麗に整理整頓されてやっと自分の物になってきたということろでしょうか。

 

映画を観ていくうえで、辺に型にはまってしまうことがあります。その型をリセットしたくなったときにはまたこの著書を読み返したいと思います。

 
実際の著書のあとがきにある話なのですが、『映画術』という書名を編集部から提案されたものの、『ヒッチコック/トリュフォー 映画術』に由来する書名なので尻込みしたという話が面白いです。またその翻訳者である山田宏一蓮實重彦に快く書名借用の許可がいただけたというのが微笑ましいです。
 

最後に、この著書に例として登場する作品を紹介していますので、よければご覧になっていただけたらと思います。

 
 

書籍に例として登場する作品

 

成瀬巳喜男『乱れる』
溝口健二西鶴一代女』
サミュエル・フラー『裸のキッス』
塩田明彦月光の囁き
アルフレッド・ヒッチコック『サイコ』
ガス・ヴァン・サント『サイコ』
ジョセフ・ロージー『パリの灯は遠く』
ジョルジュ・フランジュ『顔のない眼』
D・W・グリフィス散り行く花
ロベール・ブレッソン『スリ』
ロベール・ブレッソン少女ムシェット
小津安二郎秋刀魚の味
クリント・イーストウッド許されざる者
リュミエール兄弟『工場の出口』
リュミエール兄弟『雪合戦』
ジョニー・トー『ザ・ミッション 非情の掟』
三隅研次座頭市物語』
三隅研次大菩薩峠
内田吐夢大菩薩峠
レイモンド・リー『ドラゴン・イン/新龍門客棧』
フリッツ・ラング復讐は俺に任せろ
ドゥッチオ・テッサリ『ビッグ・ガン』
ジャン=リュック・ゴダール『はなればなれに』
ジャック・ドゥミシェルブールの雨傘
加藤泰『緋牡丹博徒 花札勝負』
森崎東男はつらいよ フーテンの寅』
増村保造曽根崎心中
増村保造 『この子の七つのお祝いに』
増村保造 『遊び』
アルフレッド・ヒッチコック『知りすぎていた男』
オーソン・ウェルズ『アーカディン氏』
ロバート・アルドリッチロンゲスト・ヤード
ジョン・カサヴェテス『こわれゆく女』
神代辰巳恋人たちは濡れた

広告を非表示にする